ユーザ担当者に契約書案を渡したのですが,結局契約書に捺印することなく,開発作業に着手しました。しかし突然,ユーザ担当者から「取締役会で予算が下りなかったので,作業を中止してください」と言われました。ユーザに対して,作業分の報酬を請求できないでしょうか。
「契約書」が取り交わされていない場合でも,契約の成立が認められることはあります。この場合,ユーザによる作業中止の要請は契約解除だと考えられますから,解除された側から損害賠償を請求できることがあります。
契約の成立が認められない場合でも,相手方が契約交渉プロセスにおいて一方的に信義に反する行動をとったことにより契約を成立させなかったとして,相手方に対して損害賠償を請求できることがあります。
損害賠償の可否及び額は,具体的な事実経過や作業内容によって異なります。

(a)契約の成立とは

ベンダとユーザの担当者間において開発作業を委託することが決まっていても,契約書の取り交わしまでには時間がかかります。その結果,ユーザの事業環境が変わったり,社内の意思決定で契約が承認されないなどの事情で,開発を中止せざるをえない場合があります。他方,ベンダとしても納期を順守する必要があり,また人材を確保するために多大な費用を要することから,契約書の捺印が終わるまで作業に着手しないのはリスクが高く,コストも膨らみます。このような両者の事情から,上記質問のような問題がしばしば起きています。

法律上,契約の成立は書面の取り交わしを必要とするものではありません。しかしながら,システムの開発のように,金額が大きく,その内容も個別的な契約については,書面によって作業内容,報酬が確認された段階で契約が成立したとみるのが一般的です(下記名古屋地裁平成16年1月28日判決参照)。

業務用コンピューターソフトの作成やカスタマイズを目的とする請負契約は,業者とユーザ間の仕様確認等の交渉を経て,業者から仕様書及び見積書などが提示され,これをユーザが承認して発注することにより相互の債権債務の内容が確定したところで成立するに至るのが通常であると考えられる。

(b)契約が成立している場合

契約が成立している場合,ユーザによる中止要請は契約の解除ということになるので(あくまで,中止の原因がベンダにないことが前提となります),ベンダは,ユーザに対して,たとえ書面がなくとも,その契約が請負契約であっても,準委任契約であっても,次のような規定に基づいて損害賠償を請求することができます。

(請負契約の場合)請負人が仕事を完成しない間は,注文者は,いつでも損害を賠償して契約の解除をすることができる。(民法641条)
(準委任契約の場合)当事者の一方が相手方に不利な時期に委任の解除をしたときは,その当事者の一方は,相手方の損害を賠償しなければならない(民法651条2項本文)。

(c)契約が成立していない場合の救済

たとえ契約が成立しているとはいえない場合でも,「契約締結上の過失」という論理によって,それまでに要した作業分の費用を損害賠償請求できるケースがあります。
「契約締結上の過失」とは,法律上の明文規定はありませんが,一般的には,契約交渉が成熟しているにもかかわらず,一方当事者が信義に反する行動をとったことにより相手方に損害を与えた場合に,信義に反する行動に出た当事者が相手方の損害を賠償しなければならないという理論をいいます。現実に,この理論に基づいて,損害賠償義務を認めた裁判例もあります。例えば,ある裁判例(東京地裁平成24年4月16日判決)では,ユーザがベンダに対して選定の事実を通知した上,システム構築に向けた作業を進める過程で見積書等に不満を言わなかったにもかかわらず,数か月後に突如繰り返し減額の要求をしたという事情が重くみられて損害賠償請求が認められました。
もっとも,契約の交渉段階では,各当事者には,契約締結の自由(締結しない自由)があります。ユーザが契約の申込みに対して承諾しなかったからといって,当然に違法であるということにはならず,損害賠償請求が容易に認められるものではありません。信義に反するような態様があった場合に限られることに留意しなければなりません。

(d)書面取り交わし前に作業に着手する場合の対処

それでは,ベンダの立場から見て,契約書を取り交わす前に作業に着手せざるを得ない場合,どのように対処すればよいでしょうか。
まず,着手する作業が有償である場合には,ユーザにその旨を明確に伝えるべきでしょう。議事録やメールなど,証拠を残しておくことも重要です。また,後に契約書が取り交わされなかったような場合に備え,ユーザから「内示書」「作業依頼書」など(書面のタイトルは問いません。)の書面を交付してもらうべきでしょう。その書面に「契約書の取り交わしに先立ち,●●の着手をお願いします」「●●の着手後,契約書が取り交わされなかった場合には,着手後に貴社に生じた費用を精算するものとします」といった事項を記載しておけば,万が一の際のリスクを一部ヘッジすることができるでしょう。
ユーザとしても,社内の意思決定が出るまでに時間がかかる場合には,意思決定に時間がかかること,契約締結が約束されたものではないことを,ベンダに明確に伝えておき,後に契約締結に至らなかった場合に責任が生じないようにしておくべきでしょう。ここでも議事録やメールなどの証拠を残しておくことが重要です。

(弁護士 高岡晃士 H29.2.28)